管理人紹介 about ski

スキーを始めるまで

  岩手屈指の温暖な気候を誇る大船渡には雪がほとんど積もらないため、スキーなどというものにはまるで縁がありませんでした。雪が降ってプラスチック製のスキーを履く友達もいましたが、怖がりだったワタシはソリ専門でした。
 大船渡の過疎地域に育ったため部活に選択の余地などなく、小・中学校ともに野球をしていました。あまり好きでもなかった上に向いていなかったらしく、いつもレギュラーと補欠の当落線上でした。泳ぐのは結構得意で、市内の大会ではそこそこ活躍しました。
 「チームスポーツは向いてない」と考え、高校では柔道を始めました。しかし、故障が多かったことや放課後の様々な誘惑から、部長を任されたにも関わらず途中で投げ出してしまいました。いまだに何をやっても中途半端なのはこのあたりに発端があるような気が・・・。
 大学では体を鍛えなおそうと水泳部に入部。しかし練習についていけず、段々とサボりがちになり、やがてユウレイ飲み会要員と化していったのでした。

スキーとの出会い、そして別れ

 当時大学の体育はスキーが必修で、安比に泊りこみで授業なんてのもありました。10万円の予算で近くのアルペンへ行き、一式買い揃えました。一番金をかけたのはもちろんウェア。上はラメ系の緑・青・黄を随所にちりばめたきらびやかなジャケット、下は紫色をしたピチピチのデモパン。とてもかっこ良く思えました、当時は。かなりイケてると思ってましたよ、当時は。
 初めて滑ったのは、授業で行った牧場。滑っては板をかついでハイクアップ。しかも、もし止まれなければバラ線に突っ込むというスパルタンな環境。おかげで授業が終わる頃には念力で曲がったり止まったりする事ができるようになりました。その後友人に誘われ安比でゲレンデデビューを果たし、ようやくスキーの楽しさを理解するようになりました。当時はスキーに行くことが何か特別で、スキー場は非日常の空間に思えました。ちなみに今は・・生活の一部?
 ところが2年目の冬、思い通りに滑れない苛立ちと、転がるサマを笑いものにされた悔しさとで『二度とスキーなんかするか』と固く、硬く、かたぁ〜く心に誓いました。2年後、友達から田沢湖へ卒業スキー旅行に誘われたときも、頑なに拒んで参加しなかったほどでした。

再会(再開?)

 卒業・進学後、先輩からバイト先として紹介されたのがリクルート関連の会社。そんな訳で冬には安比のシーズン券をタダでもらえる特典がついていました。でもスキーをしなくなった自分にとって、そんなことはどうでもいいことでした。
 ところが、この特典をエサにバイトに誘った小林という男が、スキーへ行く足ほしさに積極的に誘ってきます。結局押し切られてしまい、渋々スキー場へ通うことになります。この男がモーグルおたくで、彼がいなければ今ごろ相当違った人生を歩んでいただろうと思うと、感謝したりうらめしかったり(?)です。
 そしてワタシのスキー人生がスタートしたのでした・・

成長の記録

'95-'96シーズン

半ばいやいや再開したものの、のめり込むのにそう時間はかかりませんでした。一緒に行ったのが同じようなレベルの連中だったこともあり、滑るのが楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。通うほど上達していくのが実感でき、ボーゲンでなんとか滑っていたのがパラレルになり、ショートターンの真似事もできるようになりました。まだ学生だったため時間は豊富にあり、人気のない平日を使って朝から晩まで滑ることもしばしばでした。この頃の滑走日数は30日近かったと思います。
 ロングクルージングが楽しめる上、レベル的にピッタリだったので、ヤマバトコース(初心者向け)ばかりを滑っていました。同士(1人?)を集めて「チーム・ハトムネ」も結成。
 シーズン終わりには成果を収めようと撮影会を実施。後から滑っている部分を編集していくうちに音楽なんか入れたりして、ちょっとしたスキームービーになってしまいました。ビデオでダビングしただけにしてはうまく編集できたのでよく人に見せていたものでしたが、今見ると相当恥ずかしいものがあります(upしようかとも思いましたが、恥ずかしすぎて断念!)。

'96-'97シーズン

 卒業がかかっていたので2シーズン目は回数を控えめに、ということはなく前年と同様のペースで滑りに行っていました。
 バイト先の特典に「安比のスキーレッスン平日無料」というのがあり、何度も通ったおかげで飛躍的に滑れるようになりました。しかし、コブは人の滑るところではないと思っていたので避けて通っていました。やがてチーム・ヤマバトに別れを告げ(?)、クワッドリフトでザイラーの整地を滑るようになっていました。
 ワタシをスキーに引きずり込んだ男(小林)の話はモーグルのことばかりでしたが、当然興味などなく、違う世界の話くらいに聞いていました。しかし、彼がコブを使ってジャンプするのを真似したところ思いのほか楽しく、コースにできたコブを見つけてはピョコピョコ飛んでいました。そのうちに飛んで開脚というエキサイティングな技(当時)もできるようになりましたが、それがスプレッドという名前だったとは、もちろん知りませんでした。

'97-'98シーズン

 就職で一関に移ったため、ホームゲレンデは安比から夏油になりました。会社の仲間と滑りに行くようになり、このメンバーを中心にチーム・Hotspringsを立ち上げることになるのですが、それはもう少し先の話です。
 この年は雪が少なく、シーズン始めに行った安比のザイラーで板をボロボロにしてしまい、買い替えを余儀なくされました。板なんて何でもいいと思っていたので、デザインと値段でヤマハの板を買いました。でもプチジャンは好きだったので、ちゃっかりツイスターやツイスプの練習なんかしていました。
 整地を気持ちよく滑っていれば満足のはずだったのですが、段々と刺激を求めてコブにも入るようになりました。でもそこはビギナー、コブに入った途端頭の中が真っ白になり、コースアウトするのに3ターンとかかりませんでした。なぜか、突いたストックの中ほどを踏んで折ったりしたこともありました。
 興味を持ってくれば格好だけでも整えようと思うもので、盛岡にあったアルペンでいかにもモーグルチックなファブリスのウェアを購入。さらに、モーグル用と書かれた激安の板を発見。ウェアだけで済ませるハズが衝動買いしてしまいました。このとき買ったのはK2のマンバIIというモデル。モーグル用のモデルが乱立していた時代の板なのでしょうが、これさえあればうまく滑れるに違いないと大喜びしたものでした。そんな訳などないのですが・・。
 コブの滑りは板を買ってからも相変わらずでしたが、この年SAJ2級に合格。取れて当然と思っていたものの、やっぱり嬉しかったです。とても。
 GWには八幡平で初のエア練。コザックやアイアンクロスのバックスクラッチャーやミュールキックなどができるようになり、充実した良いシーズンでした。

'98-'99シーズン

 コブは3ターンのクセに、モーグルエアはアレを除くシングル技を一通りマスターしていました。アレとは・・・ヘリコプター。ヘリに対する思いのたけは記事にしたので省略しますが、肩をケガしてしまって大変な思いをしました。
 このシーズンはある意味当たり年で、他にも板、ビンディング、ポールと続々壊してしまいました。板が折れた時は閉店まぎわのゼビオに駆け込み、「明日滑る板がないから」とソッコーで板を買って無理矢理取り付けさせた思い出があります。このとき買った板はアトミックで、テールにSUPER MOGULと書いた派手派手なヤツでした。さらに後日、保険金でパワーマンバ(しかも190cm)をゲット!LEDが光るのが嬉しくて、夜な夜な明かりを消しては板をゆすってニヤついていました。
 道具がよくなったおかげか、シーズン終わりごろには安比のオオタカコースにできたコブをいい感じで(あくまで本人の感覚)滑ることができました。

'99-'00シーズン

 ブーツもそろそろモーグルモデルが欲しいと思い始めていたこの年、悩みに悩んでGENのBUMPS9を購入。ところが店では良さげだった履き心地も、ゲレンデでは足に当たりまくりで、滑走の翌日まで痛みを引きずることもしばしばでした。ゲレンデと用品店を何度も往復して調整し、ようやくなじむことができました。'02シーズンにはカント調整やインソールといったチューンもほどこし、お気に入りのアイテムに仕上がりました。
 愛機テンエイティもこの年に導入、ヘリコプターができるようになったのはこの板のおかげです。今までヘリをしようとマンバでさんざん苦労したのがウソみたいにバンバン回れるようになり、シーズン終わりにはブロンコやアイアンクロスなどのミックス技が出せるように急成長しました。360°回れるようになると、今度は回数を増やしたくなるのが人の常。という訳で720に挑戦もしてみたりしましたが、必死で回ろうとするほど軸が傾いてしまって話になりませんでした。 
 この年夏油で開かれた草大会(BUMPSカップ)に初参戦。ベガスさんと2人きりの参加で知り合いもなく、肩身が狭い思いをしました。結果ですが、1回戦の1エアでコザックが出せればいいやと思っていたのに、ミドルセクションまで持ちこたえてなぜか相手をリード。2エアまで考えてなかったのでミュールキックを出したら、よじれた体を戻せずコースアウトしてしまい結局1回戦敗退。無難にツイスターでも出していればその後の人生が変わったかもしれません( ・ g・)うそーん
 負けた悔しさよりも、それまでエア台付きのコースを完走したことなどなかったので、滑りきれたことをとても嬉しく思いました。なんだかんだ言っても、やってみれば大会参加は楽しいもので、1エアもパスした上ひどく時間をかけて降りてきたベガスさんも大会後の笑顔は爽やかさんでした。

'00-'01シーズン

 前年の草大会では人数が少なくて淋しい思いをしたこともあり、人を増やそうと思ったことがチーム立ち上げの一番の理由だったように思いますが、この年モーグルスキーチームを結成しました。今は潰れてしまった飲み屋(菊池邸とも言う)で思いつくままチーム名を語る中、評判がよかったのが「Hotsprings」でした。ただ残念なことに、半ば冗談で言ったにも関わらず、2/4人は単語の意味が分かっていませんでした。
 ホームゲレンデの夏油高原では、猛者だらけのチーム・エクスプロージョンがC-3コースにラインを常設していましたが、そっちは滑らず(滑れず)、比較的斜度のゆるやかなA-3コースをメインに滑っていました。この頃にはなんとか休まず転ばずに通して滑ることができるようになっていましたが、とにかく必死で滑り降りるだけといった感じでした。撮影した映像を見返すと、懸命さがひしひしと伝わってきます。
 誰かに滑りを教わるでもなく伸び悩んでいましたが、エアは踏み切れないものの着実に進歩し、ミュート360や先行動作に腕を使わない360(”魚雷”と命名)、回りっぱなし720(運良く立てた事も。)などスピン系の技が得意になっていました。ストックのリングが、回るとなぜか頭にぶつかることが多くなり、この年からヘルメットを装着し始めましたが、「浮いてる」「黒光り」とあまり評判はよろしくありませんでした。ま、今でも使ってますが。
 大会参加は2回で、一つは田沢湖デュアルモーグル。霧のため途中からビッグエア大会に変更になり、得意の○○○グラブヘリを繰り出すハズが、板が引っかかって大転倒。恥ずかしさのあまり、全く痛みを感じませんでした。もう一つはえぼしモーグルフェスティバル。そろそろ1回くらい勝てるかなと淡い期待を抱いてスタート。しかし、第1エア手前ですでに相手は前方へ消え去っていました。ゼンニッパーだったらしく、相手悪すぎでした。

'01-'02シーズン

 伸び悩むコブでの滑りをなんとかしようと思い始めて早数年。モーグルのスクールに入りたいと常々思っていたものの、近くにそんなスキー場はなく、「スクールのあるところで山ごもりしてぇ」と夢を持っていました。
 ところがシーズンイン直前にそんな夢を叶えるような出来事が起こりました。それは「転職」。次の職場への採用が決まった時点でソッコー辞表を提出し、2ヶ月間白馬五竜スキー場で山ごもり。住み込みで働きながらだと時間も制限されると思い、無職で好きな時好きなだけ滑れる環境を選びました。今思い返しても、とてもシアワセな日々でした。
 目を見張るほどにうまくなって岩手に戻るつもりでしたが、そんなにスキーは甘くありませんでした。それでもスクールへ行くたびに目からウロコのテクニックや練習法を教えられ、コブの滑りは大分良くなったと確信しています。金もかけたので当然といえば当然ですが・・。
 大会参加はフィッシャーモーグルカップとえぼしモーグルフェスティバル。初のシングル戦だったモーグルカップでは、思いのほかうまく滑れたつもりが10/16位。後からビデオでかっこ悪い手つきを見てガッカリしたりナットクしたり。えぼしの方は、絶対の自信を持っていたヘリでまさかの転倒。またしても1回戦負けでした。
 このシーズンにID-oneのMRを購入したのですが、それまで履いていた10cm近く長いパワーマンバの方が扱いやすく思え、「買わなきゃよかったかも」と少々後悔。しかし、慣れていくにしたがって板の反発もしっかり感じられるようになり、お気に入りの板になりました。
 滑りに集中したシーズンでしたが、なぜか飛びも進歩していました。うまく上体を先行させる方法が分かったおかげで、ゆとりを持って720回れるようになりました。そして次のステップへと進むことに・・。

'02-'03シーズン

 結婚したために滑走日数が激減!ということもなく、前年スクールで教わったことを反復練習していました。
 ID-oneというものがありながら、1年と履かずに新しく板を購入。それが泣く子もわめくツイスターリミテッドでした。一言で感想を言うならば、「おそろしくカタい」。そして「走る」。整地でショートターンをするとレスポンスの良さが目立つのですが、曲げるのにパワーが必要なため、一度コブに入ってちょっとでも上体が遅れようものなら即チョッカリでNobody can stop me,そして「死」。あまりの恐ろしさに、最終的にはロシモーとのトレードに出すことに。でも、夏油DMで(ギリギリ)入賞できたのは運だけでなく、この板のおかげだったのかもしれません。
 前年見たHALさんのバックフリップに触発され、何かやってみたいと思いWJにも通いました。そして出た結論は「フロントフリップ」。新雪の日を選んで台を作り、何をやっても痛くないように準備してからトライ。数回目には見事立つことができました。これで調子に乗ってしまい、ランディングポイントの手入れもしないでミスティに挑戦。板が外れないまま雪に刺さってしまい、ふくらはぎが肉離れ。反省とともに数週間養生・・。復活してからはテーブルでもフリップにチャレンジ。徐々に縦に回ることへの恐怖感も薄れていきました。
 このシーズンあたりから、チームテンエイティを始めいろんな方々と一緒に滑るようになりました。仲間が増えるって(;´Д`)スバラスィ ...ハァハァ

'03-'04シーズン

 トレードでゲットしたロシモーを投入。これがコブも整地もパウダーでさえも楽しめるスグレモノで、これ1本あれば他に板はいらないんじゃないかと思えるほどでした。それほど気に入った板でしたが、A-3コースでフリップをショートした際にポキっと・・。作りがデリケートなのか、周りは折った人だらけのようでした。
 前年フロントフリップをマスターしたので、今度はバックだ!という訳で年末にチャレンジしてみました。しょっぱなからうまいこと回れたのですが、回転を急いで腰が曲がり脚がルーズに開いた姿はまさにグレンプレイク。回数をこなすうちに腰が伸びるようになりましたが、脚はまだちょっとヤバいです。安比で連日顔着という悲劇にもめげず、コースでの実用に向け頑張っています。
 大会への参加は2回。なんつーか、勝負の前に自分に負けてるなって感じでボロボロでした。もはや思い出したくもありません
(ノ ゚Д゚)ノ ==== ┻━━┻
 白馬でお世話になったF-STYLEの出張キャンプが奥中山高原で開かれ、低気圧接近のものすごい天気の中日帰りで行ってきました。内容はまたしても目からウロコ。たった1日で滑りがガラリと変わりました。その極意はズバリ「脱力」。追々記事にしたいと思いますが、徐々にマシになってきたストックワークといい、かなり有意義なシーズンでした。

'04-'05シーズン

 せっかく覚えたフリップは封印、というわけではないですが、もっと滑りが上手くなりたかったのでテーブルを飛んだりといったことはまるでせず、滑りに専念しました。その甲斐あって・・と言いたいところでしたが目に見える成果は何もなくorz 気に入って使っていた、頂きもの白テンがエッジ剥離。その後、安かったのですかさず飛びついたラバランプは翌シーズン使おうと大事に保管してたのですが・・。







'05-'06シーズン

 相方・HS弐号に、「今年は網張で大会やるらしいから一緒に申し込もう」と誘われたのがきっかけで公認登録。こうなっては後に引けず、生まれてこの方やったことがないほどオフトレに励みました。さらに、未使用のラバはそのまま封印して公認向けにテンモー投入、ヘルメットもつば付きを新調。満を持して迎えたシーズンでしたが・・参加人数不足で開催中止orz でも正直ホッとした気持ちもあったような。
このままでは終われないと安比の草大会に参加しましたが、己の弱さをさらして1回戦敗退orz 悔しいやら情けないやらでしたが、もうあきらめていたところに妻から「他に大会ないの?」という優しいお言葉をいただき月山の草大会に参戦。年齢別だったミナミカップで辛くも4位入賞を果たし面目を保ちました(?)
そのほか、踏み切りを改善してライン上でサブロクを回れるようになったり、スライド練習でスキー操作も上手くなってきたりと結構充実したシーズンでした。

'06-'07シーズン

 1年でやめるつもりだった公認大会参戦が空振りに終わり、泣く泣くオフトレをこなして体作りに励んで再挑戦。2戦のうちリステルでは出せるものを出した感がありましたが、続くエーデルでは散々な目にあいました。でも、緊張感のある雰囲気と他の人たちの滑りに刺激受けまくりで、こりゃ来年もやるしかないかなと。草は安比で参戦でしたが、例によって1回戦撃沈・・。
滑りの方は、せっかく2本足で立ってるんだから両方使おうやとか、板にはエッジも面もあるんだとか、徐々に大事なことが分かってきた気がします。あとおまけでSAJ1級を取得(in越路)。
年々おろそかになっていく飛びは、昔できたものだけでも取り戻そうとしましたが、720はなんとか、BFはスリングでしかかけられなくなりスリリングなハメに、FFはまるでダメな上に軽い脳震盪まで起こす有様。コーク720に届く日は果たしていつ・・。

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